2011年9月21日水曜日

朗読

朗読の稽古は楽しい。

以前、家の朗読の会にきていた人が
保育士の資格試験のための練習を、と。
えらんだのは「てぶくろ」、ウクライナの民話である。
「てぶくろ」といえば内田莉沙子翻訳、と思っていたけど、
今は、いろいろな 「てぶくろ」 があるみたい。
彼女が試験用に選んだのは、日本製の「てぶくろ」だった。
でもお話は似ているから、だいじょうぶ。

彼女は(試験を想定して)そっとイスに腰かける。
もともとエレガントで、ていねいなヒトである。
この何年か、月日はきっと彼女にやさしかったのだろう。
すこしだけれど、のびのびした人になった。
試験が前提だから、練習できびしくするのだけれど、
いちいち、かぼそい声で、
「ほんとにそうですね」
礼儀正しくも相づちをうって、それから上半身をおりまげて笑う。
ヘンな朗読をしちゃってと、自分で自分がおかしいのだ。
こうなると、がぜん稽古は楽しいものになる。
自己表現の門がぎぎぎーっと開く。
すなおで自由。教える私をおそれない。
「てぶくろ」のイメージが、
いきいきと彼女の頭に入っていくのが見えるようだ。

自分の欠点をおかしがるって、できそうで出来ない。
緊張する自分とたたかい、朗読する民話を理解しようとたたかい、
しかも表現する自分のことも楽しむ。
のびのび、のびのび。
こども相手の朗読ならば、よけいそうである。
なんとか試験までに、と彼女はいっしょうけんめいだ。
むかし朗読をはじめたころは、家にくると泣いていた。
友達の朗読をきくたび、自分が朗読するたび、
なにかで胸がいっぱいになって、声がでなくなるというふうだった。
あの硬い緊張感や余裕のなさを、この人はいつどこで、すてたのだろうか。
この何年かを、どんなにかゆっくりと、かしこく過ごしたのだろうか。
だれかが教えてできることではない、おそらく自分なりにそう学んだのだ。

「お芝居の台本のように練習するんですね」
そうね、まずはね。
じぶんがなにを話しているのかちゃんと識っていることがだいじよね。
忘れ物のてぶくろに、みんなで住んじゃって、楽しいなという話でしょ。