2011年9月3日土曜日

憲法の集い2011 鎌倉 ①

4月9日(土曜日)
鎌倉九条の会はこの夕べ、井上ひさしさんを追悼する大集会を行う予定であった。
会場は鎌倉芸術会館、大船。講演者は、内橋克人、なだいなだ、大江健三郎の三氏。

私のことなど言うにあたいしないが、もう遠くて。
明日日曜日は会議だし体力が無い。行きたいのだが行けると思えない。
土日休まず、ぶっ通しで次の一週間働くなんて、今の自分にできるだろうか。
参加するべきだ、参加するべきだ。
やめようと考えては思い直す。
疲労で呆然としながらクルマを運転、午前中の仕事を片付けてもまだ迷い、
やっと決心がついて、チケットを手に入れ、大船へ。

3.11以来、
「破滅の日」が巨大な壁となって私たちの目前にそびえ立っている。
その感覚。孤独そのものの認識。
かつて大江さんに指摘された、いや大江さんだけではない、
学者、原子力発電所で働いて死んだ人、この団地の住人。
映画、芝居、講演会、買い求めて途中まで読んだ本も雑誌も。
友人たちとの会話、みっちゃんが個人で出し続けた反核家族新聞だって。
私たちみんなをかこんでいた、原発の恐ろしさを告発する論理の集積。

冷笑をうかべ、片頬をゆがませ、わずかに唇をひんまげて、
原発がなくてどうする、、米軍基地がなくてどうする、
あなたたちは今みたいに暮らしていかれないよ。
そういう男は多く、
主人がそう言うんですし、難しいことはわからないので、という女は多く。

私といえばいつも、なまはんかに位負けして。

この日、大江さん、内橋さん、なださんはどう語ろうと決めたのか。
作家。経済学者。精神科医。
彼らが加わる民主的運動、彼らの言動、彼らの書くもの。
私は知識と誠実をあわせもつ人の見解をきいて、その上でよく考えたかった。
原発に関する知識をもう一度、と期待したのでは無かった。
破壊の巨大さから言って、なんにもわからないなんて大人のいうことではない。

破滅だとしてどうする。
それが私たちみんなの、今日只今の正直で切実な疑問というものだろう。
私たちはそれでも生活し、子どもたちを育て、死ぬ日までは生きるのである。

なんにせよ、知らない顔ではいられない立場というものがある。
職員と親と子どもに対して、園長とはそういうものではないか。
共同体の人々に対して、年寄りとはそういうものだろう。
親であるということもそうだ。
父親であれば母親であれば、子どもに対してヒトはそういう立場に立つのである。
程度の差こそあれ、おとなにはおとなの責任がある。
ふだんはどこかのんきで、そんなことは思いもしないのだけれど。

日ごろ幼稚園は幼児の保育をになう、一見平和なばかりの現場である。
幼稚園には幼稚園らしいイメージというものがガンコに存在している。
日々平安を土台に、政治だの運動だの激動だのを徹底的にきらうのだ。
しかし、命は、日々の生活に支えられ、生活する者は明るい見通しを必要とする。

見通しをもちたい。日々平安につながるなんらかの。
亡き井上ひさしさんは、私たちにのぼれる階段を示す人だった。
実行がむずかしい高級な理論ではなく、と、ヘトヘトの私はいま一度ねがった。