2014年1月22日水曜日

鶴三会句会 1・16


第六回目、努力型とやっつけ仕事型の差が明らかに。
句会におのずと品位のようなものが現れ出でて、いま会場はうららかである。
現在ふたつの型の真ん中へんにいる人は宇田さんだろうか。
イライラが哀愁をおびている。やっつけタイプの私など相応の敬意をおぼえてしまう。
悲痛は尊敬を呼ぶのである。

落葉散り 既に 己も下り坂

本人の言によれば、「既に」はすでにと読む。でも私は勝手ながら、ついにと詠みたい。
宇田さんの口調は、吐き捨て悲憤調、それがまた怖くて愉しいというものである。
「いやいや僕は何年も前から下り坂だと思ってましたよ」
ははは、そうかもしれないけれど、今を生きるこのタマシイにふさわしいのは
遂に、という決定的切迫感だと思うのですが、いかがでしょう。
三國さんによれば、川柳のよう、と。
川柳と俳句のちがいはなかなか難しいらしく、まあ、川柳だと季語なしでよろしいと。
もちろんこの場合は、落ち葉散り、が季語である。

思うに、今回の句会の出色は川上さんだったのでは。

胸さわぐ メタセコイヤが 燃える日々
白珠を 抱く月あり 朝まだき
荒れ庭に 光り集める 石蕗の花

川上さんは従来文学的な人で、胸の想いが句に反映する。
じっくり取りかかって、本気で作句する気持ちも好ましい。
三國さんの柔軟的確な御人柄のもとで開いた才なのかもしれない。
光り集めるとうたってもらった、石蕗の花の幸せを思う。
はじめの句にはどうやら季語がないらしい。メタセコイヤが黄葉すると、
川上さんは高村光太郎の詩の赤毛の女を想起するという。
そんな読書歴の厚みが、いまはまだ俳句の形式になじまないということかもしれない。

無花果や 鳥追う父の 声なつかし

この懐かしい句は木下さん。声なつかしが一字あまってしまうけれど、
「鶴三俳句ということでいいでしょう」と先生が。微笑ましい想いのこもった俳句ですよねえ。
病床にある木下さんの一日二十四時間はどんなに長いのかしら。
思い出が訪問して、それから、・・・と木下さんのお部屋と車椅子を思う。

銀杏を 拾う人あり 風去りて

これは村井さんの句だけれど、三國さんがこうなおされた。
風去りて 銀杏拾う 人のあり
なーるほど、名句だなあ、新聞に投稿したらどうかなあ、とだれかが言う。
新聞に投稿といえば、
「これはすぐ採用されるでしょうなあ」と三國さんがおっしゃった句がある。

秘密法 背すじ強張る 師走かな

おなじ考えの人は俳壇にも存在するからと。
私は斎藤さんがよくまあ、背すじ強張るという表現を考えたものだと思う。
ナイーブな方法で国家機密保護法にむきあう表現って、あるようでいてない。
俳句というのは心映えがほんとうに伝わる文学でしょう?
賛成句だって反対句だっていっぱい集める、
そうすると日本人の今がよくわかるのかもしれません。

時雨去り 色とりどりに 石畳

小林さんの写真つき俳句で、京都のお寺の光景なのだとか。
それがわかってガッカリしてしまった。
聞くなりうちの団地のアキニレのことだとカン違い、内心快哉を叫んだのに、
嗚呼それなのになーんだ京都のことだったのかあ。
初冬。ところは鶴牧三丁目。
玄関をでるとアキニレの鮮やかな紅葉に胸躍り、
石畳がまさに色とりどりの絨毯のように見えて大感動。
でもどう考えても自分は俳句にできない、けっきょくあきらめてしまった、
そこにこの小林句である!
うーん、斎藤さんといい小林さんといい、よくまあ上手に詠むものですよねー。

吹かれては なお挫けずに 枯れ芒

中村さんの句。尾根幹道をクルマで行くとき、人は芒のことを思わずにいられない。
とりわけ冬が銀色野原でうつくしい。
ところが俳句俳句とあせってもダメだ、私などぽかーんと眺めるばかりである。
・・・なお挫けずにかあ。
中村さんの言語の森には、おそらくミャンマーとの関わりによって定着した感興があるのだ。
欠席されたが、こういう句も届いていた。

地の果てに 学ぶ子等や 冬の空
(なおこの句は、三國さんによって、学ぶ子どもら、となおされた)
地の果てに 学ぶ子どもら 冬の空

今日の句会で学んだことに、俳句の場合、美しい、きれいだを隠して
どうしてもつかうなら下の句にもってくる、特別な時以外は使わないほうがよい、
というのがあった。
美くしや 音の競演 秋の虫
これは斎藤さんの秋の句であるが、三國さんがなおしてつぎのようになった。
こうすると高尚になりますねとつぶやいた人がいる・・・斎藤さんだったかしら。

おちこちの 音の競演 秋の虫


(よい集まりだったと楽しくなって帰宅しました。)