2013年1月16日水曜日

アムステルダム ゴッホ


アムステルダム中央駅はロッテルダムから列車で二時間ぐらいか。
古典的な駅舎は、東京駅がこれを真似たのだというが、美しく風化して親しみやすい。
ゴッホを見て、「牛の家」店?でステーキを食べようという計画。
駅前の路面電車の、遥が案内板をにらんでいる。
「あ、大麻の匂いがするよ、だれかが吸ってるはずだけど」
「そうなの? よくわかるわね?」 
私も、わからないなりに雑多な観光客やさまざまな外国人を見渡すが、
もちろん見当がつかない。
「おかしいな、どの人だかわかんないな」
それどころではない、あっちのトラム、こっちのトラム、
すぐそこの港には旗がひるがえっているし、ぞろぞろ、ぞろぞろ、ひっきりなしに外人が
往来するので、たぶんゴッホ美術館はいっぱいだろう、入れるのかしらと心配だ。
何年かまえ夏に来たときは、並ぶのがメンドウであきらめたのである。
「寒い時なら人はこないかと思ったのに」
「どこもおんなじよ、お母さん、外国人も新年のお休みを利用して旅行するのよ」

旧教会が見える。セント・二コラスの。1556年・・・。
行ってみたいけれど、ゴッホが先だ。
アパートメント・ホテルの洗濯機がドラム式で、表記がオランダ語。
乾燥機もなにも、おそろしく時間がかかり、しかもちゃんと使えているかどうかわからない。
遥は時間通り迎えにきてくれたんだけど、出遅れたのである。
オランダまで来て、一週間しかいられないのに、洗濯機のせいで出遅れるなんて。

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ。
若い時から、時々、何かの折にゴッホの絵を見て、
スーッと通りすぎた。
オランダに3年前に来た時も、混雑におそれをなして、やはり通りすぎた。
ゴッホの絵に対する人々の尊敬や愛着が不思議だった。

ピカソは絵についてこう言っている。
「絵は考え抜いたものでもないし、こう描こうときめて描くものでもない。
それに見る人の心の状態によって変るものだ。絵には絵の人生がある。
絵は見る人を通しても生きているのだ。」
ほんとかしら?
でも私はピカソの言葉に、漠然とではあるが、今回はこだわっている。
オランダのゴッホに対する扱い、あるいは旅行者のゴッホに対する熱意が不思義でもあり、
不幸のどん底にある国からやってきた自分というものが、
この心の状態で、ゴッホの絵をどう見るというのか知りたいのである。
絵は見る人の心の状態で変る、と言うのだから。