2013年1月27日日曜日

ハーグ市立美術館・モダン・アート


入り口の警備員は黒人だったけど、遥にニコニコ挨拶をしてくれる。
仕事の知り合いである。
いつも思うことだけれど、遥は孤独じゃないと思ってホッとするのだ。
ロッカーに荷物を預け、美術館を歩いた。
15世紀といえば600年も前、そのころのオランダ絵画から20世紀までの展示。
この美術館は、モダン・アートで有名とか。
華麗にして大量の宮廷絵画、それからレンブラント、ブリューゲル、フェルメール、
セザンヌ、モネ、ピカソ・・・たとえばエゴン・シーレの奥さんの悲劇的で素晴らしい全身像。
ゴッホの、精神病院で描いたという、美しくて現実味のつよい花と野菜の畑。
彫刻もあれば皿も、壷も展示されてある。
アムステルダムの美術館とはちがって、すいているので、ゆっくりできてうれしい。

ところが私は、なんの絵が素晴らしかったかなんて、ほとんど思い出せない。
駆け足で通り過ぎた、みっともなくて何の意味もない、と思ったんだけど、
20世紀の見るに耐えない作品群の荒廃ぶりしか、印象がない。

最初に眼に入ったのは、部屋の中央を占める大きな円形の囲いである。
首を吊られた人間が、やわらかくグルグル、囲いのなかを回っている。
あたまはウンコだ。衣服を着たウンコ。
幾部屋もの、ナチスドイツの言動の再現。理想主義を失った大戦後の人類の精神の醜悪。
日本でも見たアメリカのポップ・アートとか、ピンナップ写真。
ご存知マリリン・モンロー。コカコーラのアイス・ボックス。
大衆化ということ。ミシンで縫える20世紀のワンピース展。
ろくに見ないでも見覚えがある世界。
草間弥生の部屋では、裸体にペインティングされた欧米人がうごめいている画面。

無意味で、と憤りをおぼえた。
過去の偉業をなんとかして乗り越えて目立とうという、
不自然で下品な野心ばかりが目立つ、
こういうことなら教えてくれなくてもよく知っている、というかんじ。
そういう中で自分も生きていたなーと屈辱感のとりこのようになる。

狭い地域でくらし、子どもを育て、家賃や子どもの学費を滞納し、
美術館にも博物館にも、入場料が払えないし時間もないからけっきょく縁がなく、
それをまた苦しいともなんとも感じなかった。
そういう私の個人的なだけの20世紀。
しかし、これらのモダン・アートはいったいどうやって、
美術と無縁でしかなかった私の眼や耳に、五感に侵入していたのだろう?
駅で眼に入るポスター、雑誌、大江健三郎ふうに言えばテレヴィからかしら?

モダン・アートなんかまっぴらだ、と思うのは自己嫌悪の一種かしら。
無意味どころかこれがアートというもので、これが私らの世界の再現、説明なのかしら。
わっからなーい。
わかるのはキライだということだけで。

ところで、嫌っていたらすぐにバチがあたっってしまった。
廊下の真ん中にコカコーラの赤いきれいな四角い冷蔵庫があって。
「ああこれ」と蓋(ふた)を持ち上げて中をのぞいたら空っぽだった。
当然そうよね、20世紀の部のアートだもの。
と思ったんだけど手遅れ。
とたんに、雲を衝く制服ノッポのオランダ人がむくむくと目前に出現。
「さわってはいけません」
まるでアラジンと魔法のランプだ。
こわくはなかったけれど、どこで私を見てどの通路を通って、隠れていた場所から、
蓋を持ち上げた私のそばに急に出て来たのかが、わからない。
どこに隠れてたんだろう、あんなに大男なのに?

ハーグ市立美術館はモンドリアンの作品のコレクションでは世界一なのに、
見なかった。
くたびれちゃったのである。