2015年8月19日水曜日

夜と女と毛沢東


 
高崎で朗読の練習がはじまる寸前、小沢清子さんがポンと文庫本を手渡してくれた。
「読んでる最中じゃないの?」ときいても「いいから」という。

辺見庸と吉本隆明・・・
なんだって。よれよれの文字がいたずら書きではなくて、タイトルなんだ。
なんだって? 夜と 女と 毛沢東?
きこちゃんって、こういう本読むの?

夜と女と毛沢東。それとも、毛沢東 女と 夜と。そう読むのかしら?

はじめから終わりまで対談、という本だ。
たとえば。
辺見庸は吉本氏にこう言っている。
1997年のことである。

84ページ。
  そんな風景(タイの国境近く)を見て、ポッと東京へ戻ってきますでしょう。
山手線などに乗るとカンボジアで戦争してる奴よりよっぽど病的な目をしてるんです
目がですね、ドロリとしてるんですね。何をしたいのかわからない。
せいぜい会社へ行くだけ。会社へ行きたいというだけなんです。
行くようにさだめられているといいますかね。
日本の朝と昼の病理というのは凄いなと思いますね。

 名状し難いほど深い病理が正常、健全として認識されるわけだ、というふうに思うんですよ。
だから、何か突出したような物言いをしたときの叩き方は本当にすごいなと。

85ページ。
 朝、ものすごく早く起きて散歩したり、ジョギングしたりして、もう夜の九時ぐらいに寝るんじゃ
ないですか(笑)

 僕は最近、こう思うんですよ。
ファシズムというのは一般的な常識から言えば、一握りの軍国主義者たちが思想、言論、
何から何まで統制して軍国主義化してゆく現象だということになる。
だけど僕は案外、民主的な手続きを踏んで、円滑に進むファシズムもありうるなと思う。
これは僕の造語なんですが、「メディア・ファシズム」

 
・・・一見健全な昼の偽善のほうが、夜の病より病理としては深いということですかね、
といって始まる「夜」の項、辺見庸氏の発言である。


やだなあ、もう。かんべんしてほしいよ。
           朝ものすごく早く起きて散歩したりって、今の私じゃないの。
           うっかりすると夜の9時に眠っちゃったりさー。