2011年10月6日木曜日

敬老のお祝い会が好きだった


幼稚園では9月に 『敬老のお祝い会』 を行う。
なつかしい幸福な一日。
どんなことばで、説明したらよいのだろう?
その日、幼稚園のホールは、
にこにこしながら集まってくださった祖父と祖母たちでいっぱい。
一生を努力しながら生きて。子どもをぶじに育てて。そして生れた孫が可愛くて。
平和とはこういう現実の重みを言うのだと、そう感じさせるゆたかな光景である。
暖かさ、理解力。ひと時代を越えたという落ち着き、疲労への共感のような。
そう、いっしょにとしをとった、ということの有難さ、私にとっては。
ちいさな孫の幸福をよろこぶ気持ちがつくる、うれしい会だった。
2010年には、『敬老のお祝い会』が終わったあと、こんな感想文が届いた。
きちんと原則的にかんがえて書いてくださってと感動、園内通信で紹介。
この方と私はおなじ学校の子どもの親同士であった。



ぼくは昭和15年生まれで、
幼稚園は小さい組4才、大きい組5才の2組だけでした。
 それに時代が時代でしたので、園のあそびは軍国主義的なものでした。
 いつ頃からか艦載機の空襲が始まりました。
 その度に、大きい先生、小さい先生の指示で家に帰りました。
 帰り道は途中でアメリカの飛行機が頭上に来ていて恐ろしくて仕方ありませんでした。
 普段食べ物はどんなものを食べていたか覚えていませんが、或る日家に帰ると、
 ゆで卵がお皿に乗っていたのがとてもうれしかった事を良く覚えています。
 八王子は、敗戦の一週間ぐらい前にB29の空襲で焼け野原となってしまい、
 小さい組を修了しないうちに通園しなくなり、
その後どうなったのか今だに判らないままです。
 一年に満たない幼年時代で忘れられない事の一つに、
空襲で医療刑務所近くの岡に母たちと逃げた時、
 遠くに艦載機の群れの一機に高射砲が当たったらしく、
えんじ色の玉となったのがはっきり見えました。
 僕は、その時その飛行機に乗っている人は〈死んでしまった!〉と思いました。
 そして戦争は本当に嫌と思い、今でもその事が自分の心を育ててきた
強い支えになっています。
 今日、小さなかわいい子たちを観ていて、
いつまでも僕らのような経験を決してさせてはいけないと思いました。
 みんなのエネルギーをもらって、ジィジィ野性人に成ってこれから頑張ります。
(原文のまま)



としとった人たちの知力がこんなに必要な時代はない。
とにもかくにも平和にくらせた感謝と御返しを、みんながどこかでできたら、と思う。