2011年10月16日日曜日

自立ということ

9月25日(日曜日)の東京新聞に哲学者の文章があった。
・時代を読む・というコラム。
タイトルは
自立的な「我らが世界」を
著者は立教大学大学院の内山 節先生である。

イタリアの話だった。
今から三十年ちかく前のイタリアはどういう国だったか。
リラの下落。政権は不安定。毎週代わるみたいな首相。おおきな企業も少ない。
ダメだこんなの、というイメージ。
ところがである。
十年もするとヨーロッパの国々は経済不安と失業率の高停まりに苦しむ。
その時、よく見るとイタリア人の生活は「健全」で幸福そうだった。
けっこうヨーロッパじゃ軽蔑されていたのに。
どうしてか。
第一次産業などでくらしている人間が多いから、と内山先生は書いている。
自営業、職人仕事、地域サーヴィスなどなど。地域密着型の職業選択。
つまり大企業に依存している人が少ない、と。
つまるところイタリア人は、
「国の経済がどうなろうとも、そんなことに影響されない自分の仕事の世界を
もっている」、というのである。

「イタリアはうつ手がなくなってダメになるかもしれないが、イタリア人は大丈夫だろう」
という評判なんだとか。ホントウ?そんなことを考えてもいいなんて。

日本は打つ手がなくなってダメになるかもしれないが、日本人は大丈夫だろう。

そういわれるような、
そういう人種になれたら、どんなに安心だろうか。
しかし、そのために必要とされる「自立性と柔軟性」という内山先生の文字を、
どう考えたらよいのだろう。
依存性と硬直、無考えと保守、長時間労働と不勉強。甘えと強情。
その逆の態度を、自分たちの生活に今さらどうやって、とりいれたらよいのだろう。

「自立的な地域の確立」と書いてあるけど、なんかこうデキなさそう。がんばれない。
「私たちのコミュニティー」とか「くらしの創造」とか。自分の生き方の範囲なので、
とりあえずそれをやろう、できるかも、ということかしらん。

なんにもやらないより、腕まくりして始めるほうが、ずっと健康だ。