2020年6月17日水曜日

2、いのちを思う


気持ちをラクに学ぶチャンスは、めったにやってこないものだ。
トシにこだわらず嬉しく学ぶ・・・。

大橋家での雑談は楽しい。話題の飛躍。遠慮しないでできる質問。
参加者みんなの、自由な説明と応答。
発言の自由は、慣れればいっそらくちんだ。
講義?のあいまに大橋Mr.が ーみんなにきいて緑茶とかコーヒーとか用意、
彼は本日の首席講師だけども。
これはみっちゃんの家に行ってもおなじ。
淑人さんが、あらゆる飲み物を考えてだしてくれる、
ー緑茶にコーヒー、無農薬のジュースと、なんでもOKである。

楽しい、という字には、いろいろあるけど、
私は学者の一人っ子だっだせいか、質問して答えがききたい。
それが、娯楽、娯しいという字と楽しいという字。
精神的ご近所さんに、優秀至極の解答者を見つけちゃったのが、幸せである。
しかも1人はみっちゃんの夫君、1人は杖代さんの夫君なのよね。
若い友だちもいっしょにみんなが集まると、
一生かかったけれど、ステキだ、これでよかったことにするべい、
できれば大笑いなんかして、と考える。

それから、
話の最中なのに、長生きということを思う。
みんなが病気もちだから。
はすかいに、みんなをながめて、生きていてほしいと切実に願う。

不意に、遠くて儚い記憶のほうに思いがそれていく。
ええと・・・幸せという音があった、・・しあわせ・・・わが、という音、
思い出せるはずもないのに、古びたホコリまみれのビックリ箱の戸口から、
むかし観た芝居のタイトルの? とヒントが姿をあらわし、
くるしくて懐かしいフレーズが、記憶の底で完成する。
ー嘲るようなわが幸せー
チェーホフだった、・・・あまりにチェーホフ的なこの痛い言葉を、
私はどんなに愛していたろうか。
砂防会館の客席で若い私は思ったものだ。
なーんだ、タイトル倒れじゃないの。

思い出のビックリ箱は、なかなか開かない。

もう命の期限が迫るという、こんな時期には、
みんなだって私とおなじようなことを想っているのだろう。

その沈思黙考、とこれは学校の試験熟語だけれど、
ことばにされない連帯感、とこれは組合運動熟語だけれど、
その遠い地平に、チェーホフの短命と、人間の生命への理解とが、
今はもう茫然として、こころもとない 私のところまで、
もう一度届いた、
それなんかも、
幸せのひとつ、まにあったということなのよ、きっとね。