2011年11月14日月曜日

一生のピーク


おばさんが言った。
「いま思えばさあ、子どもを育ててたころが、一番幸せだったよ」
「ほんと!? ウソだぁ!」
私が言う。
「なにがウソなもんかいアコちゃん、本当だに。あのころはさ、めた幸せだったよ」

学生時代、信州信濃追分の民宿に、毎年、夏だけお世話になっていた。
おばさんはその家の主婦だったから、18の私が38とか48とかになっても、
私をアコちゃんとよぶのだ。
追分村で夏を過ごすことがなくなってからも、親の手元からはなれた私に、
おばさんは林檎や手作りの味噌や畑の野菜なんかを箱につめて送ってくれた。
糠漬け絶品という、なにをやっても人一倍できる日本の主婦である。
子どもが大きくなると、私はボロ車を運転し、むかし沓掛いま中軽井沢の
街道沿いにおばさんを訪ねた。おばさんが始めたカフェ一らしき飲み屋で、
むかし楽しんだ料理をつくってもらい、裏の小部屋に泊めてもらったりする。
私はおばさんの料理上手、子どもへの献身、生活力にいつもおどろいていた。

小諸の方角だかに新しい養老院が建ち、そこにおじさんが入っているというので、
お見舞いに行ったこともあった。
おじさんは鉄道工事の人で畑と兼業、頑健寡黙な男だった。
おじさんが畑に行く時、泥んこの小型トラックに乗せてもらってついて行ったっけ。
たずねれば質問にこたえてはくれるが、たいがい黙ってなにかの作業をしている。
おじさんの泥のあとびっしりの地下足袋のしたで、地面や小粒の砂利の音がする。
黙ったまま、彼の日は経ち、彼の日が暮れる。そんな武骨で重たいような人が、
酒やけした声で、おばさんのいうとおりに、私をアコちゃんとよぶから、
みょうにちぐはぐな気がして気の毒のようであった。

おじさんとおばさんは一生すごく仲がわるかった。
こどもたちとも、心がかよう風でもなかった。

おばさんは未婚の若い私からみれば不幸な人であり、結婚して私自身が苦しくなって
からも、幸福とは言いがたい人生をおくっていた。
・・・多少わかるところがあっても何もわからなくても、所詮どうしようもないが、
ただ途方もなくこわい疑問を、おばさんからもらったように思う。
子どもを育てている時が一番幸せ、というのが真実ならば。
もしかして今の今が、私の一生のピークだとしたら。
いったいどうしようというのだろう、自分は?
考えに考えても、立ち往生するしかなかったが・・・・・・。
子どもとくらす時間のなかに、幸福というものの元素のキレハシでも見つけて喜ぼう、
そういう態度にはなったのである。