2011年11月22日火曜日

一軒家のライブ


千歳船橋と桜上水のまん中あたり。
古色蒼然でもない、ごく中古の住宅地に、
しっかりした車庫つき木造の家をスイッと借りて、四人の、
なんというのでしょう、
ロックバンドのメンバーが住んでいる。

「生活の柄」ということばがタカダワタルさんの歌にあるけれど、
彼らの働く生活のガラが、いかにも感じられる雑然として!いい「家の中」だ。
道路をはさんで、夏だと幽霊でる?みたいな向かいの家屋。
その敷地の樹木が、こっちにはみだすように茫々と茂っているのも、
彼らの生活の柄をものがたるよう、そんなもんなんだなーまったく。

どういう幸運か、防音でもないのに音が外に漏れない幸福な家。
そこで、
同居ロッカー四人は、家の中で、練習だけじゃなくてライブをと。
この企画は人数限定らしい、大勢だと畳の上でも座れなくなるから。
演奏したのは五グループだった。
私なんかよく、そんなところに招待してもらえたと思って。
なんという贅沢。
音楽をきかせてもらいながら、イッパイのんで、息をすったり吐いたり、だ。

たのしい夕暮れで、わくわくとした一夜だった。
いつか、私の家にも、この人たちがきて、
よく知っている子どもの親たちにあってもらえたら、と思った。
彼らこそは、幼い子どもたちの、すぐその先をあるく人たちだからである。


現代の表現には、
いったいなにが重要なのだろう。
むかしはいつも、よくわからなかった。
どーでもいいじゃんか、と思ったことは一度もないんだけど。

けっきょく、
表現というのは、あそびがないと息ぐるしいから、
いろいろあってよいのだろう、
それでも、人の心をうつ作品が必ずもっている何か、というのはある。
わるいけど、やっぱりあるのだ。
いったいどの分岐点を通過することで、共感できる作品ができるのかしら。

あの日は、そういうことを、考えさせられた夕べでも、あった。

3・11以後、わが国の不幸は、とくに誰の眼にもあきらかだ。
しらない、わかんない、かんじない、たのしい、と言ったって、
厚く塗ったファンデーションの下の、日本のわが胸の底の此処に、
おわらない原発 がある。
歌だろうと説教だろうと、「カンケーねえ」ことを表現する場合にだって。

表現の原点は、いまや整理されてしまった。
対抗も、反対も、ぎゃく表現も、無視だってありだけど、
おわらない原点にドン感だと、自分がおもしろいだけ、になってしまう。
どうしてかって、
音楽をきくだけの、楽しみたいだけの (Tシャツのロゴを失敬すれば、
looser とでもいうんですか) 私たち観客が、
例外なく、悲しみとともに、おわらない原発の上に立っているからだ。

「抗議」しないなら「生活の柄」をとらえて語る。
どっちかを、まず。
そういうことかも、と演奏をききながら、自分も考えるのが楽しい。
生活の柄というワナのような枠にはまった自分を、
いろんな自由さで、のびのび語れたらなー。

タカダワタルは酔っ払いだったけど、ガンコだった。
自分ひとりで哲学をさがした。芸術人だから本もたくさん読んだろうけど、
吉祥寺の「伊瀬や」で酔眼朦朧・・・・・、
彼は偶然あつまった人々をながめ、タカダワタル的な表現で、世界を説明した。
ま、そういう時代。そういう生活の柄。ワタルさんだと。
哲学って、いかに生きるべきか、を表現にこだわってさがすことだと思う。