2015年9月10日木曜日

山崎ナオコーラの「手」


山崎ナオコーラという若い女性の随筆を読んで、闊達自在な、奔流のような筆力に
おどろいてしまい、短編小説集「手」を図書館で借りて読んだ。
まぎれもなく文筆業で身をたてていく人なんだろうと思う。
1978年の生まれというから、いまごろは37才。

「手」を読んで、彼女の小説のヒロインたちの意地悪さに、これはこれで胸をうたれた。

時々、私は京王線の女性専用車に乗るけど、ナオコーラさんのヒロインとおぼしき人たちで
いっぱいだ。通勤時間帯だからか、幸福そうな人なんかいない。
たいていの人がスマホでゲーム、あるいは、眠って、病的で、険しい顔をして、無表情で、
ふつうの車両よりよっぽど、老人や弱々しい人がいても無関心または無視なのだ。
そして、どういうわけか美人が多いような気がする。シャンプーしたゆたかな長い髪の毛。
細い眉毛。白くて透き通った肌。首に巻かれたデリケートなチェーン。
いろいろな色のていねいしごくなマニキュア。 洋服、とはいわず今はなんというのか、
通勤用としても程がよいし、帰りに何処かによることになっても適当な素敵なドレス。
用意周到に考えられた、欠点の見当たらない武装、仕事にも、男にも。

能力がそれなりに高い、という感じの人ばかり。ばっかりでもないか。

「この人は、たぶんこの生活費に見合うほどのお金を受け取っているんだろうな」
私は女性専用車に乗るたび、つくづくそう思う。延々都市へと通う女性たちの、
人形みたいな姿かたちと向き合って。
けっきょく、気が付けば自分のものの見方だって山崎ナオコーラと変わらない。
考えていることが意地悪だ。職場での戦いに 疲れ果てているのだろう心に向き合って。

・・・でも私はこの有能な若い作家に意地悪になってもらいたくない。
言論の一端を担う人には、世界をたてなおす義務のようなものがあると思う。
小説は行きずりの人間のスケッチではない。
ただ人々の風俗を引き写すだけのものではない。

そういうことに甘んじている立場は、いま週刊誌の話題となっているサカキバラセイトを
扱う残酷そのものの手法の、さして遠くもない親類である。
・・・現実に一人の、誰かの息子や娘が堕ちてしまった地獄に対して、
もう初めから一切、責任をもたない、向き合わない立場。
文は人なり、という言葉はどんなことで[格言]になったのだろう?
なぜ私たちは、時々、その言葉を思い出してしまうのだろう?
印刷された文字には、あるいは公になる文章には、
つねに人類というものを問い直す責任と,
人間の限界を越えようという希望が、内包されてしかるべきだからではないだろうか。