2015年9月14日月曜日

伝統の不思議


もしかしたら今日の国会包囲デモで大江健三郎さんが話す。そういう噂である。
大江さんの声をじかにききたい、なにを考えているのか知りたい、そう思う人は多いと思う。

大江さんが大群衆をまえに話す、そういう時、気になるのは、引っかかるのは、
必ず大江さんの先生だった、例えば渡辺一夫先生や丸山真男先生の学問を、
引用し下敷きにして人々に訴える、その姿勢というか順序だ。
直截な話法の他の著名人とぜんぜん違う。まだるっこい、と言ったらよいだろうか。

話法そのものが、
ヒトの意見というものは人類が賢人から引き継いだ知恵の結果であり総体である、
それを丁寧になぞることによって、今日の自分が始まり、そしてここにいる。
大江さんの場合、その結論のうえに、作家大江健三郎の訴えが構築されている。
・・・というふうに感じる。
たとえば真夏のギラギラと暑い日なんかに地面に座り込んできいていると、
気になり、ひっかかるその話法が、
これは「立場 」とか「言論」のあるべき姿かもしれないと厳しく胸におちてくる・・・。
たとえそれがどんなに暑い日であろうと。

このあいだ、高知県の知人がいつものように梨を送ってくれた。
親から引き継いだ梨園の経営者である。
奥さんの話だけれど、従来の品種(たとえば新高梨)以外にも
「いろいろな梨を植えちゅう」 もう絶滅しかかっている昔の品種、あたらしい品種も。
その梨を、たいていの梨園では早く試食して結果を知りたいがために、接ぎ木してしまう。
「けれども、うちでは苗木を植えて直接育てるきに・・・。」
そうやって由緒を護って本来の育て方をすると実がなるまでに何年かかるのか。
「そうやねえ、10年はかかるねえ」
こんど新しく植えたのがなるまで、生きてるかどうかわからん。
疲れた声が、ふざけて、はははと笑う。

話をきいているうちに、大江さんの話法を思い出した。
そういえば大江健三郎さんも四国の生まれだったなー、と。