2015年9月3日木曜日

違和感


大学時代の友人が骨髄異形成症候群だという。

・・・ながいあいだの友だち同士で、
むかし近所でよく一緒に遊んだ、というような言い方がまあ実感にちかい。
近しいようでいて遠い人、私がお世話になるばっかりの。
彼女は下町風の情緒ゆたかな大家族育ち、私は東京郊外のピリピリした一人っ子。
それはもう感覚的に当然の違和感があるはずで、
溝のようなものを克服することができず、なんというか、一生が過ぎてしまった。

むかしうちに遊びにきてくれて。
私がケーキ?を彼女にすすめたその時が違和感のハッキリした始まり。
思い出すたび滑稽で、二人して折にふれて笑った話である。
「このケーキ、すごくおいしいのよ 」
私が彼女にケーキをのせたお皿を渡そうとする。
お腹が空いてないからと遠慮したら、彼女にすればちょっと遠慮してみせただけなのに、
「そうなのお? すごくおいしいのになー、がっかり」
本気にした私がケーキ皿をすぐに引っ込めてしまった。
「ビックリしたわよ、私は食べたかったのよ、すごくおいしそうなケーキだったじゃない」
あとになって、それも悩んだ末だろうけれど、彼女が私にそう言ったのである。
放っておいたらこの人のためにならない、タイヘンだと心配してくれたのだと思う。
私も、じぶんは自他ともに認めるヘンなやつだという危機感があったから、
ふつうはどういう言いかたをするものなの、と彼女にたずねた。

「たいしたものではありませんけれど」「おいしくないとは思いますが」
ふつう、お客様にはそう言ってすすめる。
そして、すすめられた方は、食べたくても一応はお断りする。

「えー、食べたいのに断るの、なんで?」
「それがあたりまえじゃないの。礼儀、よ。ただの、つまらない礼儀だけどもね。」
可愛くて、図書館で付け文されることの多かった、遠慮がちな美少女。
私のほうは、ただもうびっくり。
「えー、だって、おいしいからこそ、すすめるんじゃないの。
おいしくないものを出すなんて、そっちのほうがずっと失礼な気がするけど」
そういうことを言ってるんじゃない、と彼女は思ったにちがいない。
私は私で、どう考えてもそんなみょうちきりんなことができるか、という感じ。
でもヘンなのは私のほうなんでしょ?

・・・ ・・・・私たちが違和感をまったくもたずに会話したのは、
65才になって、突然、私が幼稚園の園長になった時だった。
彼女の方はずっと新宿区の幼稚園の先生であり、もうすでに退職して、
研究者になった夫君を支え、母子相談業務を開始し、政治活動も続けていたころである。

ひとときでも、私たちの間にある違和感がまったく消失したことは素晴らしかった。

2011年の私は、園長であるのに職員と対立し、悩みは複雑をきわめたが、
在任中、私は常に、彼女の意見を参考にさせてもらっていたのである。
コツコツ型で誠実な彼女は、都の職員として、組合活動歴も職場での苦労も長く、
それだからだろう、気がつけば、
幼児教育の現場で起こるトラブルの推移をおどろくほどよく理解する人なのであった。
経験も豊富、人脈もたいしたもの。それでいて権威主義など一切ない。
多忙な中で幼児教育の勉強を怠らなかったせいもあり、
夫君の知的で鋭いアドバイスも、あの遠い日の美少女を成長させたのだろう。
底なしの共感力に驚かされたことが、今なつかしい。
青天井がぱーっと開けた、私にしてみればそんな感じなのだった。

私が園長をやめると、また 、私たちは疎遠になった。

大学を卒業してからずっと、私たちはいつでも平行線をつくって生きていたなと思う。
私のヨコにはどんな時も彼女が見えていて、だから特に浮き沈みの激しい私は安心だった。
今になって思えば、 私が彼女の生活のどんな圏外にいようとも、
こまれば相談ができる、なんとか時間をさいてくれる、それに私は慣れていた。

私たちは、二人とも家族のために時間をさかないわけにいかないし、
同じような考え方だから交際がとぎれなかったと思うけれども、
それでも彼女と私では、生きる方法が違う。感じ方もちがう。
たとえ似たような考え方をしていたとしても。
計画し、働き、雑用をこなし、いろいろな人々と関わり、
そうしているうちに、時はただもう、べつべつに過ぎてしまって、
・・・あげくの果てが、骨髄異形成症候群だという知らせなのである。

電話があって、彼女がはやくも身の回りの整理を始めたときいて、
これは私自身の終末の始まる合図だというような・・・。
青空に亀裂が、にぶい音を立てて拡がるのをだまって眺めるというような。
生と死は一直線に並んでいるものなのだ、という考えに私は衝たれることになった。
たとえ治るのにと私が思っても、それは私の感覚による選択であって、
またしても彼女とはちがう選択でしかないのである。