2015年9月5日土曜日

家族新聞「すいとんの日」特別号


この夏、猛暑のあいだ、みっちゃんは、
安倍内閣の憲法違反と独裁型国会運営に、終始憤慨していた。
戦争をする国にふたたび日本がなってしまうという という実感に、
心底腹を立て、悩み、なんとかしなきゃ、なんとかしなきゃと言い、
あげく不眠症が深刻化、あまりの愚劣な展開に悔しさと不安で眠れないのである。
家族新聞「すいとんの日」特別号は、そんなみっちゃんの怒りの仕事である。
あの暑いさなか、手紙を書き、原稿を集め、編集し、印刷屋へ行き、そしてとうとう、
おととい昨日と、むかしからの読者の家に「すいとんの日」特別号が届きはじめた。

みっちゃん、あんたはえらい! 堂々としてさわやかよね、いつも通りに!

「特別号」には、反核家族を宣言した本間家みんなの抗議の原稿が載っている。
新聞は6ページもあり、迫力と実行力と抗議と主張とアッピールが折り重なって、
切り抜いたり貼ったりのテンコ盛り。だからなのかどうか読みやすい。
瓢箪から駒ってこう、パワフルってこうなのさ!

私は、お父さんの淑人氏の「主夫のつぶやき」がとてもすばらしいと思う。
みっちゃんの努力を考えても、それぞれ独立して暮らしている娘、息子を思っても、
本間家周辺の読者、たとえば私みたいな、に与える影響を考えても、
家族新聞からこういう文章が出てきたことを、今回の白眉だと、心から祝いたい。


主夫のつぶやきは「戦後70年を生きて」というタイトル。
(ぜひ読んでいただきたいので、ここに載せてしまうことにしました。)


戦後70年を生きて 
                                        本間淑人


 私は終戦の年に台湾で生まれ、翌年引き揚げ船で和歌山田辺に上陸し、父の故郷に
引き揚げました。家族5人で着の身着のまま、命からがらの引き揚げでした。乳飲み子だ
った私にはその時の様子は知る由もありませんが、両親や兄達の話では、故郷に帰り落
ち着くまでには筆舌に尽くしがたい苦労があったようです。
引き揚げて11年目の晩夏、母は49歳で病没しました。病弱だった母にとって、引き揚げ
船での 苦難や、その後の満足な医療もままならない窮乏生活は、耐えがたいものだった
に違いありません。私は戦争体験こそ無いものの、その傷跡を引きずって戦後を生きて
来ました。戦争は残酷の極みで人の一生を翻弄させるとの思いと、国の指導者が賢明で
ないと、人々は不幸のどん底に突き落とされるという思いは、片時も頭から離れることはあ
りません。
 終戦から70年を経て今また 、かつて国策を誤った指導者の一人の孫が宰相となり、ア
メリカに押し付けられたとして平和憲法を忌み嫌いながら、その「押し付けた」アメリカに服
従して戦争の片棒を担ぐという愚かな選択をしようと蠢いています。首相は、すり寄ってくる
チンピラ議員やヒラメ官僚や御用学者で側近を固め、有権者の3割にも満たない支持票で
政権を担いながら、世論の様々な声には耳を傾けようとはせず、立憲主義を無視して破滅
の道を突き進む・・・。こんなハチャメチャな男を指導者に抱える国民は不幸と言うほかに
言葉がありません。

 ところでこの夏、私は息子とポーランドへ慰霊の旅に出かける機会を得ました。
訪れたのは20世紀最大の負の遺産であるアウシュビッツ強制・絶滅収容所です。
 収容所の所在するオシフェンチム(アウシュビッツ)市は、ポーランド第二の都市クラクフか
ら約50キロ離れ、車で1時間余りのところにあります。ドイツ軍による爆撃を免れたためか、
古い建築現物も点在し、収容所の周辺は大量殺りくが行われた場所とは思えないほどのど
かな田園風景が広がっていました。訪問前にナチスに関する資料や、小川洋子氏の随筆
「アンネ・フランクの記憶」を読んだりして、多少の予備知識は得ていたのですが、実際に現
場に赴くと想像を絶し、耳目を覆いたくなるほど凄惨で衝撃的なことばかりでした。このナチ
スによる蛮行が、わずか70年前に生身の人間が、他の人間に対して行ったという事実に身
の毛がよだち、ナチスによる蛮行の罪深さをあらためて感じました。うず高く積まれた無辜の
人たちの旅行鞄、女性の毛髪、メガネのツル、ガス室で使用したチクロンの空き缶等々、な
かでも靴の山の中に幼児の靴が点在するのを見た時には、戦慄を覚えました。また収容所
別棟内の階段に腰をかけ、頭を抱えて泣いている遺族と思しきろうじんや、濃緑の軍服姿で
見学に来ていたイスラエル軍の若き男女兵士がとても印象的でした。

 私たちはさらにそこから数キロのところにある、ビルケナウ第二収容所に向かいました。そ
こはナチスによる究極の犯罪現場と言ってもよいでしょう。ヨーロッパ各地から貨物列車で移
送されてくる罪なき多くの人々を、強制労働かガス室送りかを仕分けた現場に立った私たち
は、30度を超える炎天下にも関わらず、しばし暑さを忘れ犠牲者に思いを寄せながら、追悼
の祈りを捧げました。
 今回の訪問では、二人の日本人の方に案内して頂きました。お一人はアウシュビッツ博物
館に勤務する唯一の日本人ガイドの中谷さん、もうお一人は、日本美術・技術博物館に在籍
し、現地で活躍するテンペラ画家宮永さんです。このお二人の丁寧なガイドにより、無事訪問
を終えることが出来ました。
慰霊を終えてホテルに戻りテレビニュースをつけると、画面は衆議院が安保法制を強行採決
したことを報じていました。
 一方地元ニュースでは、1万人を超えるユダヤ人をアウシュビッツ収容所に送り込んだ罪で
本人不在のまま死刑が言い渡され逃亡の末、晩年に捕えられた94歳のナチスの元将校に
あらためて禁固4年の刑が言い渡されたと報じていました。

 戦後70年たっても戦争犯罪人を許さず、責任を追及する国がある一方で、戦争遂行の総
括もせず、自らの責任を明らかにすることなく「1億総懺悔」とごまかしながら連綿と続く日本
の為政者たち・・・。
 戦争はいやだという若者に、利己的だと悪罵を投げつける同世代のチンピラ議員・・・。
 無謀な戦争により辛酸をなめた市井人として、平和憲法と一緒に古稀を祝う特別な1年に
したいと考えています。