2020年7月16日木曜日

「北朝鮮で兄は死んだ」など


どうやら身体の具合は普通なのに睡眠時間のコントロールができない。
1時間おきとか、2時間おきに目がさめて、本を読み始めてしまう。
 夜中に、2冊とか3冊、かわるがわる読んでいると、朝がくる。
どこかで気の早い親分みたいな小鳥さんが、号令口調?で、
いつまでも鳴く朝だ。今朝はそれがカラスだった。
うるさくはないんだけれど、ちょっとなぐってみたいなと。
説教がましい訓示みたいなカーアカーア声で、鳥たちだってイヤがってるわよ
と、そう思う。

そういえば、幼稚園の門の外で、お母さんと子どもを待っていると、
お向かいは小学校の校庭で、毎朝、朝礼が行われていた。
人にもよると思うけれど、小学生にああしろこうしろと号令を掛ける先生は、
なんと冷淡で、思いあがった声音の人だったろうか。
部外者で、あんたをちょっとなぐってみたいなと思う人が、この世にはいるんだと
チャンスがあったらわからせたいと思ったものだ、と思い出す。

と、人のことをあれこれ言うのはやさしいが、
今朝、読了した小さな本は、私が恵まれていたためにしでかした昔のまちがいを
手遅れだけれどほんとうに思い出させるものだった。

「北朝鮮で兄(オッパ)は死んだ」  七つ森書館
 ヤン・ヨンセ   聴き手は 佐高信
複雑な在日の事情を、対談の形式が、
読み手に、わからないとはいわせないような、効果をうんでいる。
だれだってヒトは複雑な事情を抱えているものだけれど、
本書で語られる悲劇と比べられるものがあるだろうか。
映画という形式を駆使する女性が話しているせいか、
隠された戦後の歴史がほんとうによく判る。
彼女の告発や非難や批判に、あいまいさは一切ない。
それでいて、過去の日本の歴史が私にも無関係ではないと、
わからせてしまう。
家族を、ドキュメンタリーという手法で描くせいかしら。

こんなふうに柔軟でなければ、しかも率直でなければ、映画も書物も、
人々の眼にふれず 終わってしまうのだろう、これからは。

ヤン・ヨンセは、ドキュメンタリー映画「ディア・ピョンヤン 」の監督で、
この映画を私は、何年もまえに、東中野ポレポレで観たのだと思う。
2005年のこの映画は
ベルリン国際映画祭アジア最優秀映画賞、サンダンス映画祭審査員特別賞、
山形国際ドキュメンタリー映画祭特別賞など、多くの賞を獲得した。
最新作は、「ソナ、もう一人の私」

東中野ポレポレに行けば、まだ、観られるんだろうか?