2020年7月6日月曜日

開票


病院に行くと、大勢の年老いたひとが、順番をじーっと待っている。
私の受けている治療が痛いので、ここにいるみんなも同じように痛いのかしらと
待つ間ついつい、考える。
痛くない病気ってあるのかしら。病気って痛いものだ。
だから痛いんだろうなと、私よりもっと痛かった友達の顔を思い浮かべる。
手術のあとのお見舞いに行った時、TさんもKさんも痛かったはずだし、
Yさんはすごく痛かったろうし、OさんもNさんだって、Aさんだって、
と私はだまって思っている。みんなから愚痴をきいたことがないなーと。
私なんか思ってることをすぐ言っちゃうから愚痴ばっかりだ。
とそこまでくると、しかたがなくて、私はいま読んでる本にひとりで戻るのだ。

本といえば、待合室で辛抱強く待つ病気の人々をながめて、
古典的でホコリがでそうな文章のかけらが、頭をかけめぐる。
ここにも本を読む人っているけれど、あの人はどんなことを思っているのかしら。
いっとき新劇にいたせいか、私は「どん底」の暗い舞台装置と俳優を連想する。
若いころ読みふけったソビエト革命文学選なんかだと、
やまいを得てここに集まっている見知らぬ静かな白いマスクの人々を、
勇敢な人々、という括り(くくり)にするのかなと思う。
運命に英雄的な忍耐力で耐え忍ぶけなげな人間的資質・・・とかなんとか。
ゴーリキーもファジェーエフも、ショーロホフも、
もう一度読んだら、やっぱり、いやいや、しかし、
昨日今日の自分は、いったいどんなことを考えるのだろうか。

それからフンガイし始める。
痛くても、わかんなくても、要らないクスリを山ほどもらっても、
納得がいかなくても、こんなのまちがってると思っても、
みんな、夫婦揃って(夫唱婦随が最近多い)も個人でも、がまんばっかりだ。
病院の待合室は、
がまん、がまん、がまんばっかり。

東京都。我慢の票田。