2012年8月14日火曜日

生命を想う ①


50才もなかば過ぎて、離婚もし、葬式もやり、親の家を売り払い、自分の家を買い、
子どもたちも一応育ったみたい、つまり一段落したころは、散々な目にあったという
虚脱感でいっぱい。だけどいい気になって不幸づらなんかしたら、全知全能のカミサ
マにすぐさまバチを当てられるという気がしてポーカーフェイス、つまり私なんかふつ
うですからとニコニコしてたつもりだけど、自分の一生分の空虚にむかって。
でも踏ん切りがつかなかった。ばかみたいだ。
鬱病なんていうことじゃないのかもしれないけど鬱的、どうせ死ねやしないのに死に
たくないのに、生きていたいのか本当は死にたいのか、よくわからないのだ。
12才のころ、死ぬ気で、鉄道のわきで電車がくるのを待ったけどけっきょくは怖くて。
以来あきらめてがんばる道を歩いたが問題が片付いたわけではない。そんなことは
誰にもあること、私なんかが文句いうなんてみなさんに申し訳ないのかもしれないと、
言われなくても思うんだけどだからって、これはよくあることだとどんなに自分に言い
きかせても、それでも生きたいと思えないのはやっかいで困ったことでしょ。べつにだ
れにも迷惑はかけてないと思うけど、重荷でしょ自分の。なんとかしなきゃいけない、
いいかげんにしないとみっともない。飽きたし。くたびれたし。

というような気がとくにした時期があった。もう西暦2001年にはなっていた。


私には思いがけないことに、小学校一年生のときからの友人がいる。
私のような生きる力のうすい者に、生涯変わらぬ親友?がいるなんてヘンだ。
その人は毎年、私の誕生日になると、お祝いをしてくれる。
私の希望をきいてくれ、日時をえらびレストランをえらび、お花を渡してくれ、
すごく考えたのだろうプレゼントを、毎年毎年、私のためにさがし・・・。
ほめてくれて、励ましてくれて、感心してくれて、
しかも彼女の夫君もいっしょに付き合ってくれるから、不思議でしかたがない。
この世には本格的に善意の人がいるのかもしれない、サッパリわからない。
そのくせ、私といえば、なんにもしない、おかえしもしない、できない。
うかない顔で、何年たっても、ありがとうと言うばかりだ。
彼女は私の誕生日を忘れないのに、私は彼女のお誕生日を覚え、られない。
なんでそんなに誕生日がだいじなのか考えたことがないし、わからない。
こんなことはよくない、こんな礼儀知らずはないと思っても、どうにもならない。
お手上げ。無気力の標本。

だけど、私たちは、だんだんに、友達らしい友達になっていったのだ。


彼女と私だけだったある6月3日の誕生日、
彼女にきくことにした。
どうして、あなたは誕生日を祝うのか。
どうして、生きるということを、あなたは喜ぼうとするのか。
あなたはなにをどう思って、人間の生命を肯定するのか。
「見ればわかる、あなたって、ハッキリそういう立場のヒトなんでしょうよね。」
本間美智子。みっちゃんである。
両親の離婚で、母親に捨てられたと思う子ども。
継母に精神的虐待をうけた少女。
味方をしてくれない父親との争い。
結婚して三人の子どもの母親になった人。
もってうまれた強靭さと、なおらない欠点と、孤独、けっきょくの楽観主義。
ここまでは、ほぼ私とそっくり。苦しくてもフツウなんだけど、
彼女はそのうえに、脊椎カリエスの結果として障害者であり、
私たちが初めてあった小学校の入学式の時からもうずっと、
差別と侮蔑にさらされて生きてきたのであって。

彼女が人生を肯定し、私が否定してやっていこうなんて。それはナシなのだ。


60年以上もむかしの、私立の小学校の入学式の記念撮影。
はじめてだから、一クラスでも、いつまでもごたごたしてたいへんだ。
お母さんたちのなかで、私の左ヨコに子どもを押し込んで座らせた人が、
「美智子です、よろしくね、なかよくして。いっしょにあそんでくださいね」
強い口調でそう言った。おねがいしますと命令にちかい言い方だった。
初めて学校に来た日だから、いい子でいようとしてるのに、
なんにもしてないのに、グイとおされて「うん」と私はいい、
となりにきた小さな女の子と手をつないだ。
並びましょうといわれて、みんな子どもは一年生用の椅子にこしかけてる。
写真が撮られるまでのあいだ、めずらしくて、その子をじっと見つめた。
紺色の上っ張りを着て、吸ったり吐いたりする息がもうくるしそうな病気の子。
神秘そのもの。蒼ざめた特別。
・・・ごたごたの中になげこまれたおとなしい星みたいな。
その子には私という子どもが必要なんだと、
感じたし、わかるような子だった。

その時は、教室で苗字の五十音順でくっついて並ぶ、弱い子と強い子である。