2012年8月17日金曜日

生命を想う ②


この春、中島美保子さんが亡くなった。
入学式のとき、私にみっちゃんをグイッと押してよこしたお母さん・・・。
お通夜が終わるころ、みっちゃんが私に、葬儀の日の弔辞をおねがい、と言う。
90才のご高齢で、お母さんのむかしを知る人は、もう、数すくない。
そのすくないひとりが私だなんて。
それにしても。
あのオンボロ小学校の入学式から、豪奢なお花でいっぱいの葬儀場まで、
私たちは、いったいどういうかげんで、友達でいられたのだろう。
めまぐるしく、ふつうの生活をしながら、あれを悩みこれを苦しんでいるうちに、
歳月は、霞のように、蜃気楼のように、過ぎてしまったのであった。

東関東大震災と原発の事故のあと、生命は、それ以前とはまたちがうものになった。

いままで、90年の長寿というものが、なにか当然のように感じられていたのに、
・・・・・・たとえば、井上ひさし著「あてになる国のつくり方」2002年・光文社によれば、
1945年、敗戦の年の日本人の寿命は、男性23・5才、女性34才。
その章の見出しは、「平均寿命が三倍になった」である・・・・。
ああ、でもこれからはどうなってしまうのだろうか。
私たちの子どもたちは、20代と30代。
孫は5才にもなっていないのである。
戦争末期には、多くの男性は戦争で玉砕、戦死、餓死。
人は空襲でも多く死に、日本全土ろくに食べるものがなく、
満足な医薬品がないから、赤ん坊は生れても死んだ。
子どもも大人も死んでいった。
それが上記の慄然たる数字になったと、井上さんは書いた。

その運命のワクの中に、みっちゃんが必死のお母さんに守られて、いるのだった。
私たちは1943年生れだから。