2012年8月29日水曜日

ア・ページ・オブ・パンク 8/25


ピンポンパンク8/25で、「ア・ページ・オブ・パンク」が体力のあるところを見せた。
アグレッシブ。陽気、主義主張もガンガン。
音楽性について? どうだってきかれても、めまぐるしくってわっからなーい。

視界がパーッとひろがったのだろう。
夏休みをとり、2週間イギリスに出かけ8回ライブに出演、結果、なんでもイギリスの
神奈川新聞?みたいな地方紙に評判がよくて載っちゃったというから意気軒昂、
かんじんのその新聞は、マイケルだかスコットだかエイゴの友人が、
「オレの家の壁に貼るよ」と言って、くれなかった、だからもって帰れなかった、
というのも如何にもの話ではないか。洒落てるんだか泥くさいんだか、
たぶん両方なんだろう、なにしろワーキング・クラスを誇りに、パンクだ、パンクだと
一年中そう言って生きてるんだから。
今回のア・ページの演奏のよさは、生きる様態と決定のしかたに加えて、
ピンポンパンクで帰国初ライブということがけっこうな真髄、アサくんの力量というか、
ライブハウス芸術のよさを、見せられた気がした。
イギリス帰り強調の!扮装?でア・ページ・オブ・パンクの演奏が始まると、
集まった面々の空気が、で、どうなったのかという好奇心、冗談のやりとり、野次、
大暴れ、絶叫、仲間的からかい、などなど、などに。
彼ら双方の存在理由と関係が、粉飾をくわえず不安定のなかに浮かんでは消える、
すばらしく好ましいあり方だと思う。
パンクのライブはまさに演奏する側と迎え撃つ側のやりとりいのち、
ア・ページもこの日ばかりは、さぞぶっちぎり感があって、楽しかったろう。
バカ高かったろう飛行機代や行くまでのゴタゴタも、むくわれたわよねー。

わいわい騒ぐのって、楽しいんだなーと。
私なんか空中を飛んでくるばかもの?!にぶつからないようにとタイヘンだ。

ロックバンドが集まるライブは、音楽が手段の小型デモのようなものだと思う。
このライブハウス形式の自由さがうらやましくって、
いろいろなバンドの演奏を見たり聞いたりが、私は好きだが、
いつも考えることは、たとえばのはなし、英語を流暢にあやつるといったって、
脳みその中にしっかり言いたいことがなければ、話題のとぼしい、どーだっていい、
痩せたエイゴしかしゃべれないことになってしまう。
ロック周辺もまったくもってそういう感じ、
いくつになっても自己表出とか個性とか、そんなことしか考えない表現活動は、
テクニックがいくらすばらしくても、インストゥルメントなるものがいくら上等でも、
自分のやせたタマシイ以上の拡がりを持たないから、
ロックなんて言っちゃっても、いつのまにか信用金庫型保守なのだ。
電力でいくら騒ぎを大きくしたって、自分の頭と耳がごまかされるだけ、
やっぱり、その日その時みんなとすごく楽しんだという感激はウスイのではないか。

デモンストレーションとは、
なんにもせよ自分の考えの表出であり示威行動である。
愛をうたおうが正義をうたおうが、人間らしくなにをデモりたいかがだいじだ。
しかもライブハウスでの演奏は、観客も出演者の一部である。
みんながその日の気分を用いて、いっしょになって演奏をつくるという、
可変型の、じか取引が大劇場より幅をきかす世界である。
そこが自由でそこが楽しい。しかも上手くいきにくい。
そういう場に自分がいるって、やっぱり、おのれの病める魂をゆさぶることだと思う。

金曜日の国会周辺デモには、独りで参加したという人があっちにもこっちにもいる。
おどろくほどの人数である。私は、その人たちの日常生活での孤立を想像するし、
自分の閉塞感についても考える。そして、なんだか、ただ、ホッとする。
集まった人はみな、それぞれが「原発再稼動絶対反対」である。
憤慨と抗議の膨大にして個々の表現。
では、日本人というものも、可変するんだろうか。
彼らは人生のどういう道筋を通って、ここ首相官邸までやってきたのだろう?
ひとりで? 万障くりあわせて?
私はだれにも似ていないが、そこがみんなと似てもいるのだろう。

ロックもデモなら、これもデモだと、どっちにいても、私は両方を比べて考えるのだ。