2012年8月17日金曜日

弔辞


家族新聞にみっちゃんはこう書いている。

母の希望通りに(美智子)
母は生前、遺影も参列者名も祭壇についてまでも、私たちにくり返し話していました。
ですから参列者は、母を大事にしてくださった方々でした。
「菊はイヤよ。真赤なバラの祭壇にしてね」の願い通り、バラをメインのお花畑の、柩
の中で母が眠っているような祭壇にしました。その両側には花好きの母らしく、沢山の
花籠。今頃、好きだった方たちと天国で楽しく暮らしていると思います。 合掌。


弔事のあと書き(亜子)
彼女のお母さんの派手なことといったら、それはもうすばらしくって、壮快だったので、
時々、お宅にうかがうのだけれど、わくわくして、フツウだと弔辞はブログに載せたり
しないのでしょうが、まー、ちょっと・・・。これはおとぎ話かなあ、と。
三分間で小学校一年から知ってた人の九十年を語る!
 



弔事(亜子)
おば様 お別れの時がきました。
おば様は、九十才。
私が、おば様に初めてお会いしたのは、
本田美智子ちゃんと私が小学校の一年生になった
入学式の日でした。
おば様は、あのころから、子どもの目にもとてもおきれいな方でした。

それからたくさんの、いろいろな事がおこりました。

おば様はオリエント急行に乗ったり、アフリカでゴルフをしたり、
仏蘭西や中国、インドやオランダやベルギーでお買い物をするという
まるで、おとぎ話のような方になったのでした。

それでも
この人は、長い十五年もの戦争と、
日本の惨めな敗戦をくぐりぬけたのだ、
そのころ、きょくたんに身体の弱い子どもを生んで育てた
ひとりの若い母親であったのだ、
とそう思うことがありました。
そんな時のおば様からは、
もともとがサッパリと、働きもので、粋な方でしたけれど、、
下町風の意地というか、くやしいというか、
そんな気持ちが、
少しだけ見えた気がするのでした。

それから、
おば様は年を取られました。
ご病気と、たびたびの入院。
もうゴルフもできないし、世界中を旅してまわることもできません。
すると、淑人さん、美智子さんご夫婦の、
こども、孫、ひまごちゃんの三代にもわたる、
家族ぐるみの支えを得て、
おば様は、新しく、
やわらかな光りかがやくような人になりました。
まことに、それは見事なながめで、
そうなられてからのおば様が、
私はいちばん好きでした。

おば様は古き佳き日本人といった気質をもっていらした、
私は、おめにかかることができて、
ご縁が結べて幸せでした。
お世話になって、本当に有り難うございました。
さようなら、おば様。
どうか安らかにお休みください。

これをもちまして、おわかれの言葉とさせていただきます。