2012年8月5日日曜日

刺青の毒蛇


電車から降りたら、向こうから、小柄な、七分パンツ姿の外人だか日本人だか
ちょっと判らない男が歩いてきた。
毛むくじゃらというほどでもないが毛だらけの両足に、
それぞれ裂けるほど口を開けた毒蛇の刺青がノタクリ巻きついている。
20代の後半だろうか、彼はおそろしい形相でもないし、服装も少々くたびれてはいるが、
Tシャツはピンク、木綿縞の七分パンツも異様ではない。
強いて気にすれば、まるっきりの手ぶら、というのが変かも。
小柄な人だ。だからこの人は喧嘩を想定、気合で両足に刺青を彫ったのかしら?
それともこれはいま流行の遊び、ただの「タトゥー」であって、洗えば落ちるのだろうか?

彼を見て、以前、お風呂やさんで出合った少女を思い出した。
なぜだか、その少女を、私は二十年たっても忘れられないのである。
暗闇にめずらしく一本の電信柱がふうーっと浮かび上がったり、
木枯らしが自分になんの関わりもない街なかで不意にするどい音をたてたり、
誰ひとり友達がいなくて、することもなく、空白が世の中、という感じだと、
あるいは電車に乗っていたりすると、その面影が宙に浮かんで、そして消えるのだ・・・。

何年も前のある晩のこと、そのお風呂やさんはガランガランに空いていた。
湯船につかると、そこに地味な顔色のわるい少女ががいて、
私が行くと、横向きになりスッと湯船に肩まで身を沈めたが、
乳房と乳房の中央に思い切り口を開いたコブラがこっちに向かって牙をむきだしている。
まだとても若いのにそういう刺青をしている。
ショックだった。
攻撃的なところがまるで感じられないうらぶれた細面(ほそおもて)。
長い黒髪、地味で小柄、
目も鼻も口も目立たない造作・・・。
スイッとタオルで胸をかくして彼女が湯船から洗い場のほうへ行ってしまったあと、
暖簾の横の『刺青おことわり』の貼り札のことを考え、不自由だろうなあと思ったのは、
いかにも目だたない表情と、陰惨な蛇の刺青のアンバランスとが、
私に考える余裕のようなもの与えてくれたから。

もしも私があの少女だとしたら、
毒蛇にどんな期待をかけただろうか。
言われっぱなしの、口答えが許されない環境にいて、
永遠に続くような精神的虐待があって、
その時、胸の、魂の底の此処にある「絶望」の門番に、あのコブラがいてくれたら。
たぶん自分はずいぶん気強かったろう。
弱者であるだけでなく、いつか虐待するやつから堂々と逃げてやるという、
希望にもならない希望をまだしも、私は持てたかもしれない。

・・・・黙っていても考えているのだ・・・・
そういう詩句があったのは、新宿の古本屋で買った朝鮮詩集の中だったか。

ああ、なんとかして、そんなふうにけっきょくは自分を痛める方法ではなくて、
虐待が内なる虐待をよぶようなことではなくて、
先生がいたり、友人がいたり、近所にただもう優しい人がいたりすれば、
とそうは思っても、
刺青の蛇をつかって、黙ったまま、ひそかに相手を喰いころしてやると誓う、
そういう、相手には届かない抵抗。
そういうことしか思いつけないほど弱いということが私たちにはよくあるではないか。