2020年1月12日日曜日

のびしろ


私には、のびしろがまだあるでしょうか、と質問されて、
うーんとうなってしまった。もちろん彼女には、のびしろがある。
よく知っている人だから、なんの迷いもなく、そう思う。
ではなぜ、こたえを迷うのか。伸びしろという単語に、中学校の家庭科でしか
縁がなかった、そういう自分に、改めてびっくりするからだ。

・・・朗読の新年会の、さまざま会話が飛び交うなかで考える。
のびしろ、についても。
そして思いが「脇役本」というヘンな本の方にふわふわ飛んでいく。

「脇役本」の著者、濱田研吾氏によれば、この文庫本には、
彼の独断と偏見による、彼の愛する脇役な人々、
極悪人や変人や狂人、上品、下品、臆病者、そこら辺にいそうな近所の人、
如何にもの善人ふう、とにかく主役を張れない脇役たちの、詩や散文が、
大量に集められているのである。
歌舞伎、新派、新国劇、商業演劇、軽演劇、映画、テレビ、ラジオなどなどで
活躍した往年の脇役たちの消息が。

ヘンな文庫本だと思って買い、寂しいときヘンだと思いながら愛読。

 それが、ですねえ。
 人間のまわりをウロウロする、ということについての、実にしみじみとした
考え方が採集されているのである、この「脇役本」には。

例えば亡くなった俳優・成田三樹夫を追悼する文章のなかで、
渡瀬恒彦氏がこんな風に言っている。   
・・・共有した時間は短かったのに、なぜ気になっていたのか考えてみたら、
私は成田三樹夫さんのファンだったのです。古武士のような風貌、失われつつある
日本人の原点を持っていた成田さんに魅了されてしまった一ファンだったのです。
先輩としてみたこともなく、同業者として見たこともなく、
いつもファンという立場で成田三樹夫さんの事を見ていたのです。
残念です。

朗読の仲間をながめると、
人のまわりでウロウロしている自分を、私はなんだかいつも意識する。
職業がらで、しかたがないのかもしれない。
相手の「のびしろ」が私にはおもしろいのだろうか? そんなことはない。
今そこにいる人の、人それぞれの暮らしと向き合って、
小さな草花のような、
ずっとさがしていたものが見つかると、
それこそ先輩でもなく、同業者でもなくということであるが、
なつかしい幸福をもらうのである。