2020年2月7日金曜日

順子ちゃんから電話


彼女から電話がかかると、マンガの吹き出しのように、
思い出の中に、私の物語り的?貧乏のありさまが、ふくらむ。
順子ちゃんは、ブロック塀のすぐ向こうの第一柏葉荘の2階に、
私は第二柏葉荘の1階に住んでいた。
それぞれ6畳一間に台所という間取りのモルタル・アパートである。
順子ちゃんはガラス職人の女房で、私は文楽の人形遣いの女房だった。

月が空に遠く輝く晩、私は赤ん坊をやっと寝かせて、
古い自転車を漕ぎだし、広い畑の方まで、遠く遠く一人走りだした。
自転車は中古屋のおじさんが、あんたの必死な目つきがあんまりだったんで、
とか言って4500円 にしてくれた男性用だから、新聞配達みたいに重かった。
どこかの農道で私は自転車を降り、広々とした畑をながめ、月を見上げた。
この世界を部分だけでも見てみようと、その深夜、急に決心したのだった。
どうしてだか、地球となんの関係もないことがよくないという気がした。
やわらかく耕された黒土や、私の三つ編みにした髪にあたたかい風が吹いた。
空は広すぎてよそよそしく、月も彼方で固く輝いてひどく遠かった。

月を眺めるなんていうことは、そのころの私には全然なかった。

私は・・・星や月は何億光年かけて、この畑の上で輝くのだろうかと思った。
化学も科学も数学もわからず、人間の命の半分を自分は生きたのだろうと思い、
人の命が70年だとすれば、もう半分がすぎてしまったのだという、単純な、
しかしこまった焦りでいっぱいだった。
 
なにもかもハンパでしかない自分を、もうどうにかしなければならない。
無能のせいで、できないことばかりの、仕事なしの赤ん坊相手の暮らし。
夫は優しかったが、文楽の人形遣いだから、いない時が多かった。
不幸だというのではない。貧乏もそんなに気にならない時だった。
劇団に7年もいて、日本中をぐるぐる回っていたのに、今は一部屋にいる。
ずーっと地震の上にいたのが、急に静止して、もう動かないのだ。
それは地味すぎて、妙な、不安なことだった。

私は、劇団の試験を待っているあいだに、大学に二つも三つも出入りした。
それなのにこれはない、オカシイ、と自分が許せなくなっていた。
小説の読みすぎで頭がヘンだったのか、芝居じみていたのか、
今晩こそ決着をつけようと、誰も居ない深夜の畑まで来たわけだった。

その頃の私は、知り合いといえばアパートの大家さんと順子ちゃんだけ。
毎日なにかしら彼女に助けてもらって、精神的な借りがふえる一方だった。
学歴も年齢も自分の方が多いのに、生活能力がまるで無いのだから手に負えない。
若い彼女は、かん高い声の、私が逢ったこともないようなタイプ、
劇団の芝居でこんな役をふられ、こんな風に演ったら、なに考えてるんだ、
リアリティーがまるでないぞと怒られそう、水戸弁。陽気な26歳。
むかしも今も、私は、彼女のことがサッパリわからないんだけれど、
あっちは有能、こっちは無能、比べると恥ずかしいことばかりだった。

「久保さん、風呂行かねえ?」と夕方、さそってくれる。
「うん、ありがとう、行くっ」と言って赤ん坊と洗面器と着替えを用意する。
もちろん畑を通って、ぞろぞろ自転車で行くのだが、
銭湯につくと、頼んでないのに、彼女がぜんぶ引き受ける。
自分はもちろん、自分の子どもと私の子どもまで湯船につけて洗ってしまい、
帰りの洋服まで着せてしまい、だれかれと陽気に喋り、
だれだかわからない小柄なおばあちゃんに「またねー」と明るく別れを言い、
私のほうはただお世話になって自分の家にもどるんだけど、帰ってみると
荷物の中に自分の洗面器が見付からない。銭湯に置き忘れて帰ってきたのだ。
なんにもしなかったというのに。

劇団では、俳優はなんでもできなければいけないと教育されてきた。
生活感というものが、リアリズムというものが、新劇ではとてもだいじだった。
もうその仕事はやめたのだが、彼女なみに洗濯も掃除も食事作りも、
とにかくふつうの人間がすることはぜんぶ出来るようになろう、
そう思って、私は 畑まで行ったのだ。
さしあたって、明日からなにがなんでもと、月に誓おうとしたのである。