2020年2月9日日曜日

新型コロナウィルス

 
新聞の論調で、最近、とても気になるのは、
編集責任者の立場のあいまいさである。
少し前、(新聞に)
汚職議員の記者会見が1分で打ち切られたというフンガイ記事が載った。
ぬけぬけと、よく言うよねー。 記者会見なんでしょ?
夜討ち朝駆けの報道関係者が集まっているんでしょう?
打ち切られる方がオカシイ。
座り込みでもなんでもすればいいじゃないか。
なぜ、1分でおめおめ引き下がるのか。
「打ち切られた」と、人のせいみたいについ書いちゃうってどうなのか。

各新聞社の編集長が首相の接待に応じて、
銀座のジロウだかタロウだかの何万円もする寿司でも食べたせいかと、
どこかで読んだ「記事」を思い出して、もう本当にいやだいやだ。
こんな恥ずかしい汚職がマスコミにはあるんだなーと思う。

新型コロナ・ウィルス という、そら恐ろしい問題についてもそうだ。
おなじ紙面でああ言ったりこう言ったり。なんで恐怖を煽るのか。

東京新聞一面トップの、
「疑い」どこまで、とかいう大見出しが気持ち悪い。
都「無症状でも検査を」
自治体戸惑い 国は慎重姿勢
この中ぐらいの見出しふたつも、主張がなくて役人みたいで気持ちが悪い。

コロナ・ウィルスについての考え方は2つある。
手も足も出ないという考え方と、
直る場合もあるよという考え方と。

得体の知れない病原菌だとしか判っていないのだから、
最悪の場合だって当然あり得るだろう。
老人とか病気もちで弱体だと、死んでしまうのかもしれない。
現に、中国湖北省では死者の数が日に日に拡大の一方である。

しかし、その場合でも、生き延びる人は、必ずいる。

いったいそういう人間とは、どんな、と考えることだって、
生命力にはだいじな努力、可能性じゃないのかしら。

丈夫で温かみのある人に、地道で、落ち着いたタイプの人間に、
どこどこまでもゆっくりと、まあ太陽消毒ってのもありますね、
空気感染もさりながらと、そう考えて笑うような人に。
考えにゆとりがありなんだか親切、 そういう人間のほうが、
少なからず、生きるチャンスにめぐまれるんじゃなかろうか。

だから、なんとかして自分もそういうヒトになればいい。
人はいつか死んでしまう。運命というものだってある。
しかし、命があるかぎり、自分にも、懐かしく親しい人にも、理解力をもち、
落ち着いて延命の工夫をと思う。

自発的に自分の考えを準備し、それを分け合う暮らしを創るし、選ぶ。
そういう努力につながる言論を、私たちは自分でも起こすべきである。

ただ不安をあおるだけの記事には生産性がない。
生産性がないばかりか、「桜を見る会」のウソ隠しで煽っているのかしらと、
もう本当に、まさかの「新聞」たちにガッカリだ。