2021年1月15日金曜日

体験の重み


私は教養のために本を読むことなんてことがまるでできず、
ただもう現実から逃げたくて、活字に埋もれていた。
父は、そんなことも、よくわかっていたのだろうとおもう。
明治生まれの、三人兄弟の長男だったとしても。
・・・なにしろ、くたびれて、このままなら自殺と思われずに死ねるからと
一人っ子の私に言い、64才で死んでしまった人だ。

私は、マヤコフスキイの詩が好きだった。
その詩集はそのころ父の書棚にあった。いまは私の本棚にある。

メーデーの前夜祭の日。
そんな日もあったと思うほど、何十年もの遠い日のことである。
大がかりな、全国各地から旗をかかげて東京にやってきた労働者の行進を迎えて、
俳優がひとり舞台に現れ、激動の労働運動を祝う大群衆を前に、
(そのひとは若き日の新劇俳優・宇野重吉だったが)
祭典の会場、代々木体育館のはるか向こうの舞台正面に立って、
長編詩を朗読披露した。そこにいる私たちの気持そのもののような詩で、それは
子どもであっても一生忘れないような「時」だった。
(私は親に連れられてきた会場の、床板にぺたんと座ってそこにいた)
ことば・ことば・ことばの、ああなんという美しさだったろうか。

朗読されたのは、マヤコフスキーの、長編詩
「ウラジーミル・イリイッチ・レーニン」だった。

考えてみれば、その朗読は、素朴さと壮大さをかねそなえた、
ひとりの俳優の才能の極致の実現だった。
優れた異国の詩人の作品と、語り手と、大勢のつまりどこか子どものような
民衆の邂逅である。

いまコロナで全世界あげての混乱の極にいると、
濫読(ただもう片っ端から読む)のたたりで良い考えも浮かばない私であるが、
どうしても、なんとも納得できず信じられないのは、
私という一人のこどもの人生の最初の感動が、
あの遠い日の、自分の一生を左右した大勢の人々の中での体験が、
海の藻屑のように社会からまるごと消えてしまったということである。

その「ヴラジーミル・イリイッチ・レーニン」が収められている詩集。
私は小さすぎたので、3冊の選集ぜんぶを読むことにはならなかったが、
父の話す声音は、正確に、記憶の底に落ちた。
「乱暴なことばを使っているがね、下品じゃないだろう?」
それがだいじなことだと、父はマヤコフスキーの詩を読んでそう話し、
私は、うんそうだねと、同意した。こどもにもよくわかることだった。

それは第二次世界大戦が終結して間もない1950年代の幸福なある日だった。

多くの場合、読書力も理解力も、実体験の大量浪費のあとにやってくる。
人生は決して思うようにはならないものだと、今ほどわかる時はない。
マヤコフスキイ選集には、こんなのもある。

       「ハイネ風の唄」(1920年)
    
    稲妻を、女は投げた、二つの目で。
    「見たわよ、
     ほかの女を連れてたでしょ。
     あんたはほんとにいやらしい、
     ほんとにあんたは卑怯なひと・・・」
    それから出るわ
    それから出るわ、
    それから出るわ、悪口雑言。
    おいらもちっとは学者だぜ、
    ごろごろいうのはやめときな。
    電気にうたれて死ななけりゃ、
    かみなりなんて
    へいちゃらさ。

ソビエトロシアを代表する作家のひとり、イリア・エレンブルグは、
マヤコフスキーのこんな詩片についても語っている。
「人間・歳月・生活」という彼の追想録のなかで・・・。
彼らは同時代の人だったのである。
レーニンも、マヤコフスキーも、イリア・エレンブルグも。

  私は自分の祖国に理解されたいと思う。
  しかし私は理解されないだろう。
  よろしい。
  私は、はすかいに降る雨のように、
  故国の端を通っていこう。

マヤコフスキーは、はやばやと自殺したのだ。